【維新の嵐 幕末志士伝】白虎咆吼 プレイ日記(8)亀裂
富山弥兵衛が示現流の稽古をしているのを近藤勇とともに眺めたり(9月中旬)、山崎蒸に針を売ってもらったり(10月上旬)と、日常が過ぎていく中、11月3日に近藤勇の中国行きに同行することに。
広島で家老の辻将曹に長州藩の様子を聞いたり、藩主の浅野長訓に長州征伐への先鋒としての参戦を説得しました。
同行した永井尚志も弱気ですが、断固討伐を説き伏せたところで今回の遠征は終了。ついでに長崎あたりへ足を延ばしたかったんですが、広島からは自由に出ることはできず、行きも帰りも移動は強制でした。
京都に帰ってきたのは11月20日。説得を担当した土方歳三は疲労状態になっていましたが、近藤勇は元気一杯で、帰るや否や松平容保の元へ長州征伐に新撰組も参戦したいとお願いしに行くとのこと。同行して参戦の許可を得ました。
屯所へ帰ると、今度は坂本龍馬の手配書が届いていました。近々京都へ来るらしいので、これまで彼が拠点にしていた伏見の寺田屋周辺をマークしておくことに。
新年を迎え、恒例のカルタ大会が開催。
脱力した肩の力が抜けたところで、1月29日、寺田屋に坂本龍馬潜伏の情報が手に入りました。情報は土方歳三が寺田屋に連泊していたら入手しました。風呂場あたりでばったり居合わせたんでしょうか。(笑)
すぐに踏み込みますが、通常時と同様、お龍が一早く坂本龍馬に危険を知らせました。
こちらの同行者はうっかりしていて、原田左之助はいいとしても、もう一人が剣術130・経験980の中島登でした。さらに無名隊士が2名。
しかしこの世界の坂本龍馬は真面目に亀山社中で商売に専念していたようで、剣術こそ180でしたが経験は250しかなく、護衛の三吉慎蔵ともども、土方歳三一人で事足りました。
これで薩長同盟のキーマンの桂小五郎、中岡慎太郎、坂本龍馬を全員抹殺。長州に止めを刺すためにも長州征伐は必ず成功させなければなりません。
長州はあくまで抗戦の構えで、日和見的な芸州藩に働きかけるため、近藤勇とともに再度広島へ行くことに。浅野長訓に駄目を押して参戦を確約させました。
やはり広島を抜けることはできなかったので、よろず屋できび団子を買い溜めておきました。金平糖同様食べると行動力を20回復します。
京都に戻ってきましたが、相変わらず暇そうなので今度は自由行動で長崎を目指すことにしました。岡山~広島~下関と移動して、下関では花札をしました。しかし同行者の原田左之助が疱瘡に罹ってしまったので、萩に寄って医者で5日間足止め。
小倉~福岡~佐賀と回って、目的地の長崎へ。花札をしてスペシャルカードを全制覇してから、記念写真を撮りました。
最後に熊本へ行き、九州方面への遊説は終わり。長州以外はもう佐幕になっていましたが、穏健の人がチラホラいて説得で一緒に佐幕思想も強化することができました。
京都に戻ったのが3月25日。屯所では田内知が間男に背中を斬られたという騒ぎが起きていました。士道不覚悟で切腹の沙汰を下し、介錯は谷三十郎が務めることに。しかし二度も失敗し、見かねた斎藤一が手を下しましたが、谷三十郎は斎藤一に遺恨を残しました。
3月下旬、島原の海仙寺に水戸脱藩浪人潜伏の情報。その首領格の赤座智俊はモブ顔でしたが剣術156・経験3340となかなかの腕前でした。『新選組血風録』の一編に出てくる敵役のようです。このゲームは司馬遼太郎が好きですね。
4月中旬には上京・大聖寺で浪士が集まっているという情報で、首謀者は川瀬太宰。このイベントのみ出てくる名前でしたが、実在した人物で滋賀県大津市の邸宅があった所には記念碑が立っているそうです。
5月に入り、近藤勇から谷三十郎が斎藤一の悪口を言いふらしていると相談されました。隊に悪影響を及ぼしている谷三十郎に処分を行うことに。
かつて芹沢鴨の件で会津藩の人間から言われたようなことを、今度は土方歳三が言っています。斎藤一も急にそんなこと言われても困りますね。ちゃんと仕事をする彼も彼ですが。
そしてあっさりとメッセージが出ただけで、谷三十郎はこの世界から跡形もなく消えました。いったいどうしたんでしょうね。馬にでも蹴られたんでしょうか。(笑)
イベント以外は暇すぎるので、四国へ行って遊説や讃岐うどんを食べる、渦潮を見るなどしてきて、5月下旬に帰ってきましたが、沖田総司が新しい刀を差していました。播磨屋の主人から金800で売ってもらったそうです。
破格の値段に土方歳三が考え込んでいましたが、私は意味するところがよく分からず、これも何か元ネタがあるんでしょうか。まさか呪われている訳でもないでしょうし。
6月中旬、新撰組でも洋式の調練を取り入れることになりましたが、それまで担当していた武田観柳斎の居場所が危うくなっていくことを意味しています。
そして7月10日、ついに長州に向けて幕府軍が進撃開始。新撰組もその中にいました。
数に勝る幕府軍が萩城に迫った頃、タイミング悪く将軍・徳川家茂が病死。兵を退くことも検討していた頼りない総大将の小笠原長行に対し、土方歳三は継戦を主張。小笠原長行も腹を括ったようです。
一斉攻撃の前に萩城は落城し、長州藩は再起不能になりました。幕府に反抗的なのは薩摩藩のみです。
京に帰ってきたのは8月30日、溜まっていたイベントを一気に消化する感じがありますが、まずは子供が生まれたという原田左之助の話があり、彼は上機嫌。
ここまではいい話だったんですが、次に隊士の馬越三郎が武田観柳斎に言い寄られているという話が。
迷惑と言えば迷惑ですが、これだけでは動くに動けず、ひとまずは様子見することに。
9月10日頃、三条制札事件。屯所でイベントを見てから河原町へ向かい、犯人と戦いました。
同時期に見廻組に謀反人がいるという情報。珍しく監察が仕事をして情報を仕入れてきました。隊士・大沢源次郎を捕まえるため、渋沢栄一とともに現場に踏み込みました。
大河ドラマ『青天を衝け』で主役になった将来の大実業家も、畑違いのためか剣術の腕は大したことはなかったので、後ろの方で待機していてもらいました。
実際に彼はこの件で新撰組と関わり合いがあったようで、ゲーム内でも結構細かい情報も拾っているんですね。
10月になり、新撰組を幕府の直参にするという話が来て近藤勇は喜びますが、伊東甲子太郎は反対。土方歳三は信頼する斎藤一に間者として伊東一派に入るように命じました。
11月7日に馬越三郎が、武田観柳斎が薩摩藩邸に出入りしていると報告してきました。数日後、薩摩藩邸のある中京でその裏付けが取れたので、別れの酒と称してしこたま飲ませて武田観柳斎を送り出します。
なるほどこのまま川にでも投げ込み、酔って転落したことにするのかと思ったら、直後に斬撃音がしました。なんて回りくどいことをするんでしょうか。
武田観柳斎が薩摩藩邸に出入りしていたとして、本当に内通していたのかは知る由もありません。土方歳三も薩摩藩邸どころか、長州藩邸にも出入りしていましたけど。(笑)
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