【信長の野望 天翔記】はじめての一騎駆け(1534年・毛利元就)その5(終)
1544年の夏には宇喜多直家に備後の神辺城を乗っ取られたものの、すぐに暗殺し、滅亡。
ここら辺の名将として知られている武将は、登場してすぐに独立するものだから、叩きやすいです。下積み経験を積んでから独立したらどうでしょうか。……まあ、うちでは新卒採用はしていないんですけどね。
このターンでは伊豆の北条氏の城を2つ奪いました。
秋に葛山氏を滅ぼしたと思ったら、冬に周防で大友義鎮が、遠江では武田信虎が旗揚げとモグラ叩き状態です。大友家には家臣が何人かいたので、まずはまだ弱い当主の大友義鎮を暗殺しましたが、1545年春に武田信虎が攻めてきて、城を3つ奪われてしまいました。
そこで被害が広がらないうちに、このターンで武田信虎を討伐。壮絶な殴り合いの末、捕縛して息の根を止めましたが、最終的にこちらの兵力は35に減少。
こうも続くと、全国で浪人狩りを行って、片っ端から処刑したくなります。(笑)
1545年の秋は、北条家を攻めつつ、兵力を回復。北条氏康も戦闘が176と手強かったものの、攻めては臨時徴兵を何度も繰り返して、予定よりも早く滅ぼすことに成功しましたが、兵は再び35に。
冬には千葉胤富、足利晴氏、真田幸隆をまとめて滅ぼすと、さらには那須家も攻撃。同盟国の上杉家とともに攻めて、当主の那須高視(戦闘140)を討ち取ることに成功。跡を継いだのは那須視胤(戦闘59)と一気に弱体化しました。
次のターゲットは同盟国の上杉家……と思っていたら、1546年の春に大友家に城を2つ奪われ、さらに柴田勝家が郡上八幡城を乗っ取り。春と夏は大友晴英と柴田勝家を滅ぼすのに費やされました。
そして秋にようやく元就は前線に戻ることになりましたが、放置していた椎名家の佐渡は雑太城に長尾景虎の姿を発見。
上杉攻めはひとまず延期して、椎名家を攻撃し、長尾景虎を討つことに成功しました。その後は越後から椎名家を追い出し、蘆名家と隣接することになりました。
当主の蘆名盛氏が戦闘全国2位の161、家老の蘆名盛瞬が134と、単騎で相手にするにはなかなか厄介なので、手を出されるまでは放っておくことにしました。
元就は冬に宇都宮城に移動し、上杉家とともに宇都宮家を攻め滅ぼしました。もう行動できないために同盟破棄もできず、このターンは城1つでおしまい。
1547年の春。小早川隆景が元服。上杉家攻めに連れて行って突撃させても、その戦いで城を攻め落としたら助け出されてしまうので、今回は連れて行かず、折を見て追い出すことにします。
毛利元就本人で同盟を破棄しに上杉憲政の元へ赴き、そのターン中に滅ぼしました。気づいた時には元就は「弁舌」まで、全ての技能を覚えていました。後はいつの間にか家宝もいっぱい持っていました。強盗ですね。(笑)
1547年の夏に種子島で島津義久が挙兵。鉄砲が100、放っておいて一族が集結するのも嫌だったのでさっさと暗殺すると、喜入季久が後を継ぎました。その後はしばらく放置。
そして秋には織田信長に岩村城を奪われましたので、やはり暗殺。こちらの後継は飯尾連竜。
前途有望な若武者たちの芽を摘んだので、いよいよ東北地方へ。那須家、戸沢家、大塚家(元は相馬家)、佐竹家と同時に4つの勢力を相手にしました。
1547年の冬に何度か攻め込んで、小早川隆景を那須家の捕虜にして登用させるなどしつつも、一気に粉砕。大名の大塚政成も戦死するなど、敵は大損害を被り、結局冬のうちにまとめて滅亡。
1548年の春は、日本海側へ移動し、蘆名家の新発田城攻め。蘆名家は滅亡し、那須家では当主の那須視胤が処断されて僧侶の岡本禅哲が跡を継ぎました。
勢力拡大も順調と思われた矢先、南部晴政が攻めてきました。戦闘162の晴政の騎馬隊は瞬く間にもぬけの殻の城を制圧。元就のいる二本松城まで押し寄せましたが、籠城戦の末、混乱させたところに火を付ける戦法で撃退。
幸い自身に延焼することもなく、城は幾つか取られたものの、兵力は無傷のまま敗走させました。
1548年の夏に細川藤孝が空いていた観音寺城で挙兵。武将13人、兵力411という大所帯でしたので、元就は一路佐和山城へ。
4倍以上の兵力差でしたが、元就は突撃した時に3連続で敵将を討ち取るなど絶好調で、結局細川家を滅亡させました。
秋のターンでは、なんと放浪していた吉川元春が忍城で独立。息子よ、恩を仇で返すとはこのこと……いや、むしろ当然の報いか。(笑)
戦後にまたしても親子の涙の対面が。かつて毛利隆元を斬ったときは少しだけ心が痛みましたが、今回はそうでもありませんでした。(笑)
なお、もう一人の息子の小早川隆景は飯尾家のところに行っていました。
冬にようやく岡本家と椎名家まで手が回って、東北地方も残り僅かに。
1549年の春に飯尾家を滅ぼし、隆景は放浪の身に。お前は生き延びろよ……
夏に島津義弘が九州の一宇治城で旗揚げ。そして北では南部晴政が再び攻めてきました。今回は城を1つ奪われただけだったので、元就は九州へと飛んで島津攻め。
轡十字は、今は亡き島津義久の旗揚げ時に使われたので、違う家紋です。もし義久が生きていたら、そちらに集まることになったんでしょうか。そうならないようにすぐに暗殺したんですが。
島津家滅亡後、秋にはすぐ南の種子島城へ。轡十字を継いだ喜入家を滅ぼしました。これらの城は、近いところにある割に制圧に1ターンずつかけなければならず、効率が悪かったです。
敵は鉄砲隊だったので、挑発しておびき寄せてから殴るという戦法を試してみました。
相手が弱っちいので、挑発でホイホイ釣れました。普通に近づいて殴りに行っても良かったんでしょうけど。
またこのターンの頭にはザビエルがやってきてキリスト教が伝来していました。以後よく伝わるキリスト教……
冬に再び北へ戻り、南部晴政らと殴り合いして、敵軍の兵を減らしました。一方でこちらの兵力は臨時徴兵のお陰で100を維持。
1550年の春にザビエルがキリスト教の布教の許可を求めに来たので、許してやったら鉄砲が増えました。使いませんけどね。
お前は武器商人か……
このターンでは戸沢通盛を滅ぼし、残る敵勢力は南部家の4城のみに。
先のイベントで増えたために鉄砲の数がすごいことになってます。元はもちろん0でした。10000って、思ってたのと桁が違った。(笑)
夏には天下統一を前に、生き延びていた真田幸隆が宇都宮城を乗っ取り。滅ぼしに行ったところ、無人の東北でまたもや南部晴政に城を奪われました。
秋にすぐさま反撃。宿老の石川高信(戦闘140)を討ち取るなどして大打撃を与えつつ、南部家の城は残り2つ。続く冬に南部家をあっさりと滅ぼしました。
後は中国地方に残った空いた城2つへ移動するだけです。
1551年の春、最後の三原城へ移動して、ついに一人で214の城を支配下に置きました。移動させるまでは、もう乗っ取りはしないで、と念じてました。(笑)
これにて初の一騎駆けは完了しました。もうちょっと時間は掛かるかなと思っていましたが、意外と早く終わったというか、普通にやるよりも早く終わったんじゃないでしょうか。もちろん、シナリオの関係上、厄介な鉄砲隊を相手にすることが、ほぼなかったという点が非常に大きいとは思いますが。
今まで普通にプレイしていた時は、慎重になりすぎていたのかもしれませんね。今回の場合は終始イケイケで、「止まったら負け」みたいに考えてプレイしていましたし。
臨時徴兵と暗殺が序盤から終盤まですごい便利で、私には最初から「流出」と「暗殺」を持った武将でなければ、無理だったと思います。
一騎駆けが可能なギリギリの武将って、いったい誰になるんでしょうか。
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